広瀬久兵衛が対馬で「おもてなし」

広瀬久兵衛日田の先人達小ヶ瀬水路

毎日新聞報道によると・・・・『広瀬久兵衛:日田の豪商、対馬で通信使“おもてなし” 福岡・博多で食料調達も−−広瀬資料館の調査で判明 』 最後の朝鮮通信使が1811(文化8)年に対馬藩を訪れた際、天領日田(日田市豆田町)の豪商、広瀬久兵衛が対馬に渡って勘定方の実務を処理したり、対馬への回送米を博多で調達したりしていたことが、久兵衛日記などを精査した広瀬資料館の調査で判明した。朝鮮語のカタカナ和訳を書き記したメモもあり、懸命に“おもてなし”に努める久兵衛の姿が垣間見える。

久兵衛(1790〜1871年)は、咸宜園主で儒学者の広瀬淡窓の弟で、広瀬勝貞知事の祖先。幕府の公金を運用する掛屋(現在の銀行)を務め、諸藩の財政再建や新田開発などにも活躍した。一方、対馬藩・宗家は日朝外交の実務を担当。朝鮮通信使は江戸時代に徳川将軍代替わり祝儀などのために来日していたが、12回目は幕府が財政難のため対馬で国書を交換。通信使は江戸に行かず、これが最後になった。久兵衛は対馬藩の飛び地の田代領(佐賀県鳥栖市)の縁で御用達を務めた。当時の日田は九州の幕府直轄領を支配した西国筋郡代のお膝元。鳥栖市誌は「西国筋郡代は対馬で事務方として動き、久兵衛も渡海して勘定方の実務にあたった」と伝える。

通信使は3月中旬〜6月末、対馬に滞在。久兵衛日記2冊によると、ほぼこの間、対馬藩の蔵屋敷がある博多で米などの調達に奔走した。調査した広瀬資料館の園田大学芸員は「対馬への渡海は初めて知った」と驚く。注目は、メモの「朝鮮信使対州来聘(らいへい)一件手控」に記されている朝鮮語の和訳。致承知(わかりました)は「アライワタ」、今日ハ天気宜(よろし)は「ヲヲノヲロンビイカア」、脇ニ寄レは「イイサラ」といった会話のほか、火は「プリ」、火事は「プリフッタ」と書き留め、万一火事の際には一行を逃がす用心も。

男子は「アトル」、女子は「スタル」、馬は「マキ」などの単語のほか、一から十までの数え方の朝鮮語なども書き留めた。園田学芸員が膨大な資料の中から見つけたもので、15日〜3月31日、広瀬資料館で展示する。